大友義鎮の 勢力拡大
家督相続についてもしらべてみました。
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家督相続
享禄3年1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内に生まれる。守役は重臣入田親誠が務めた。
父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、守役の親実と共に義鎮の廃嫡を企んだ。天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派を粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった。同時に入田親誠ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。
勢力拡大
天文20年(1551年)に周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を討つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した。特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。
また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後の勢力も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて天文22年(1553年)に一萬田鑑相、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦慮したものであった。
さらに弘治3年(1557年)、義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。毛利元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、元就と内通した筑前の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。永禄2年(1559年)には室町幕府第13代将軍・足利義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国の守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された。永禄3年(1560年)には、左衛門督に任官する(これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。この事から足利将軍家に多大な献金を行っていた事と、その信頼を受けていた事が察する事ができる)。このように義鎮は名実共に九州に置ける最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出したのである。永禄5年(1562年)、出家し休庵宗麟と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられ後に毛利氏との和睦交渉などにも将軍家の調停を依頼するなど関係は密であった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』